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赤い夏(2)

からの続き)

「時」というものは容赦なく過ぎる。その「時」は、どのように知恵を凝らし、戦いを挑んでみてもとどめる術はない。
それはともかく、ミキからかかってきた突然の今日の電話は、一気に私を遠くなった日の景色に連れ戻した。

「ふふふ。ほんの少しだけど、私の手がけた仕事が芽を吹いて、
いま懐具合がいいの。
あなたを誘って、急に旅に出たくなったのよ。
パスポート持っているでしょう。
一週間後、羽田空港の出国受付のカウンター前で合流よ。
忘れずに、予定表に入れておいて。必ずよ。
あなたとの旅を、いつか実現する。これは私の誓いのようなものなの。
あなたは知らなかったでしょう。
詳しいことは、また後で連絡する」
と、たったそれだけを私に告げて、電話は切れてしまった。

 私の手の中にある受話器が、その時まるで生き物のように跳ねたような気がするのだが、電話の向こうにミキがいる気配はもうどこにもない。
「ちょっとちょっと、待ってよ」
 切れてしまった。電話の向こうにいるミキを追いかける私。

 当時、私は多少公的身分に近い場で働いていたので、日本から外に出るには、提出しなければならない書類が幾つか必要だった。それに、ミキは知らないが子供も2人いる。だが、そんなことはどうでもよくなっていた。
 ミキとの2人だけの旅なんて最高。私の心が弾む。
思いもかけないミキからの電話と、旅への誘い。そのプレゼントに、私の心は舞い上がる。しかも、見知らぬ異国への旅の誘いなのだから。

「あなたはいつも、別の世界を飛んでいたような少女だった。
そのことを思い出してのプレゼントよ」
と、私に告げたミキ。受話器の向こうでひそかに、含み笑いをしているようなミキの気配が感じられた。
 13歳の春以降から、今日までの間に過ぎた時間。ミキの心の中に吹いた、風の行方を私は知らない。少し縮れた髪の持ち主だったミキの姿が無性に懐かしい。
幼稚園と小学校は同じだったから、かれこれ9年間、いつも私の隣の席にいたミキ。そうして、別々の方向に向けて歩き出した2人。
日本に帰国してからは、東京都神戸という地で、音信不通の時が過ぎていた。
社会の様々な矛盾をいやというほど教えられ、それなりに鍛えられて、大人になった。その中には、もう思い出すまいと心の奥底に封印したものも多い。
 受話器を通して聞こえたミキの声には、まだ幼い頃の甘え声が残っていた。何しろ背丈がいつも同じくらいだったから、ミキは私の左右いずれかの隣にいて、担任の先生から「そこの2人、静かになさい」とよく叱られていた。
「委細、会ってから詳しく話すわよ。母上にもくれぐれもよろしくね。
必ず、約束の場所に約束の時間までに現れてよ。
楽しみにしている。
行き先、時間は後で連絡するわ。じゃあね」
 ミキからの唐突な二度目の電話も、こうしてぷつんと切れていた。
手元の予定表を慌てて繰る私を、不審な顔で見上げる子供たち。

 当時は、外国行の飛行機の発着便は全て羽田空港からの時代である。
 幼い頃から、私は少し放浪癖があった。いつもどこかに旅することを夢見ていた。
だから、日頃から旅の準備には怠りない。何か一つくらいは役立つ習慣が思いがけなく生きる。
時には、仕事も家事も子供も日々の暮らしの中に置いて、一人旅に出かけるのを私は生きがいにしていた。そんな自分を、ミキは知っていたのかもしれない。

 とは言っても、昭和20年8月の暑い夏の日以来、私の運命はそれなりに恵まれた生活環境から放り出され、「のどかさ」などという言葉も時間もはるか空の彼方に消え去り、誰にぶつけることもできない「怒り」を胸に抱いて生きてきた。
 寡黙であった父は多くを語らないが、激変した生活環境の中で、一からの再出発に懸命であった。病弱な身体の母、まだ幼い妹2人が私の側にいた。その長女の場にいる私は、たとえ力不足であったとしても、背筋を伸ばして生きていかざるを得ない日々が続く。

 旅好きの仲間から、「外国への旅は必ずパスポートが必要だから、チャンス到来の時を逃さないように早くから用意しておくこと」との親切な助言をもらった。その友の進言は思いがけなく、今回役立つことになった。

 一応、夫の了解は取り付けなければなるまい。子供2人を数日預けることになるのだから。
ミキからの突然の旅への誘い、パスポートが必要な旅への願いを、夫に申し出た。
「いいよ、どこへでもどうぞ。
ただし、行き先と帰国日時くらいのメモは残しておくこと」
と言われた。たったそれだけの返事に、多少は緊張気味でいた私は拍子抜けする。
「それはそうとどこへ行くのだ」
と夫に聞かれて、私は旅の行先を聞いておかなかったことに気がついた。
「また電話くれるそうだから、その時にわかるわよ」
と応える。少し舞い上がっている気分の自分に反省もするが、考えてみれば「行先不明の旅」では済まされないと納得もする。

 ともかく、ミキと私のふたり旅はこうして始まった。
(続く)

赤い夏(1)

「もしもし、ご無沙汰しています。私が誰かわかる?わかんないでしょう」

 今日は珍しくいつもより仕事が早めに片付いたので、たまには家族の夕飯でも作ろうかと、キッチンの中をうろうろしている私にかかってきた一本の電話。
過ぎた遠い日の、どこかで聞いていた声が、受話器の向こうから私を呼んだ。遠い日の記憶にある、その声の誰かを追いかけながら、その誰かを思い出そうと、私は懸命であった。
私の記憶のスクリーンのどこかに、いつもいた、誰かの声を。
私と遊んでいた、幼い日々の友達の誰かに違いないと、その声の主を探る。
その時、記憶の中の幾つもの映像が、いきなり早送りになり、ぐるぐる回り始めた。

 そうだ、思い出した。
あの声、私に話しかけてくる言葉のトーンは、小学校の時に同じクラスにいたミキだ。

「ミキね、そうでしょう」
「ふふふ。ご名答。ご無沙汰続きでごめんなさいだけど、その、ミキです」
「驚かさないでよ。何年ぶりになるのかしら。いつの間にか、あっという間に時が過ぎているわよ。数えきれないほどの時間よ」
「あなたと別れてから、かれこれ、もう40年くらい前になるわよ」
「いろいろなことがありました。でも、どうやら、かにかくに私も生きてきたわよ」
「私も、同じようなものよ。ところで、お母様たちはお元気?」
と、ミキが言う。

 私の記憶の中に、今でも鮮明に残っている様々な思い出の映像が、次から次へと浮かんでは消える。泣いたり笑ったり、膨れ面をしていた幼い時のミキの顔が。
長い間、一箇所にしまわれ、止まったままになっていた私の頭の中の映像が、息を吹き返したような動き始めた。
その映像は、まるで、生き物のように、次から次へと勝手に回転をし始めた。ミキも私も、幼いよちよち歩きの頃からの映像である。

 当時、台湾・台北市に、共に在住していた幼友達のミキ。南国の風土の中で、子供たちは伸びやかに育てられていた。その島で、産業・農業・教育環境等を整備した努力が実を結んだ穏やかな街であったが、その懐かしい島も、今は異国となり、大きく変化している。
 南国特有の伸びやかな風土と、抜けるような青い空。その中で生まれ、おおらかに育っていったミキと私。
そこに住む人たちの心根もまた、おおらかであった。
日本が統治していた時、教育環境の整備に特に力を込めていたから、文盲の民もいない。今は知る人も少なくないが、日本の最後の旧帝国大学となった台北帝大と、旧制台北高等学校・高専もあった。
 ミキと私が卒業した小学校は、今も当時と同じ場所にあり、数年前に創立80周年を迎えた。現在は3000人からの子供たちが学び、子供たちの歓声が響いている大きな小学校になっているという。私たちが入学していた当時は、たった2学級で出発した新しく可愛い小学校で、親も子も元気いっぱい。みんなで校庭の石を拾い、草を抜き、机を運び、楽器も運び入れ、少しずつだが子供たちが学び、遊ぶ場に整えられていった。私たちは、その誕生したばかりの小学校の2回生であった。

 当時、台湾に在住していた日本人は、後に第二次世界大戦と呼ばれることになる戦争に遭遇し、それは日本の敗戦という、思いがけない形で終わった。
 否応なく母国日本への強制帰国命令が出る。そこに住んでいた多くの日本人たちの生活環境の全ては、この日を境にして大きく変化していった。その厳しい現実に、子供たちもまた否応なしに遭遇することになる。その地で生まれ育った子供たちにとっては、まさに母なる大地との決別である。温暖な気候、豊かなる食材、行き届いた教育環境。それらを全て放棄しての強制退去。予想もしなかった過酷な現実に直面することになった。
 それから過ぎた年月の中で、愛に満ちた穏やかな心の回復には、かなりの時間が必要だった。
だが、どのように多くの時が経過しようとも、忘れ去ることができない様々な景色は、人の心の中にいつまでも生き続ける。 

 ミキからの、思いもかけない30年ぶりの電話は、私を幼い日々の景色の中に一気に放り込んだ。生まれてから18歳まで、伸びやかに育った日々の思い出。それは、私の思いを遠くに連れ去り、いつまでも、心を彷徨わせることになった。
(続く)

恋または愛 その断章(3)

からの続き)

 義雄がどうやら、無事医学部を卒業したことは、後に風の便りで聞いていた。

 私は、限りなく魅力に満ちた図書館という場の住人になるために、再び学生生活に戻り、新しい仲間と共に、たとえ食うや食わずの朝夕であったとしても、かけがえのない友だちとともに、まだ戦争の後遺症が多大だった図書館の再構築に向けて、また文化の再生に向けて熱い議論を交わす日々の中に身をおいていた。
 敗れ帽子に、結び目が今にも解けてしまいそうな風呂敷に、書物を詰め込んだ議論好きの学生というか書生風の男たち、下駄履きのまま一癖も二癖もありそうな強者たちと共に学び直した2年間になる。上野図書館のある一帯は、当時はまさに暗闇の森のなかであった。
 日本の文化再生、貴重な資料の保存、さまざまな読書活動の展開など、行方未だ定かならずの時が、それでも熱い心を胸に抱いた若者たち、そうそうたる教授たちによる文化財の保存収集、図書館活動再生の日々が、それから続くことになる。
 それらの再構築のために、東京上野の森から全国に散っていった仲間たちが、どんなに時を経たとしてもいつまでも恋しく懐かしい。

 義雄から電話が入ったのは、彼が無事所定の単位を修了し、すでに一人前の医者として、さらに独立して委員を開業しているという、嬉しいような、でもあの遊び人風の義雄が?という疑問符が残る報告であった。
「出て来いよ。君の仕事場の近くに病院を開いている。
君が私を放り出してから、それなりの時間が経った。
結婚もした。ともかく逢いたい。人間の寿命なんてたかが知れているんだ」
相変わらず、ぶっきらぼうな話をする芳雄からの電話であった。
 私は、別に義雄を放り出した覚えはない。それぞれの立場があって、過ぎた若い日に義雄の幾度かの誘いに応じる勇気がなかっただけだ。心の中の何処かに、「あのやんちゃの君は如何お過ごしであろうか」の思いは、いつもあった。

 約束の時間に指定された場で、義雄との20年ぶりの再会は、果たされた。
「赤坂のホテルを予約してある。そこに今から行く。逃げるなよ」
「逃げはしないわよ。お供しましょう。いつかそうなると思っていたから」
「遅いよ、君は。俺は、最初に君に出会った時から、いつかはと決めていたのだ」

 義雄は、私を「現世」というこの世界に置いて、早々と別世界の住人になった。
彼の魂は今どこを彷徨っているのだろう。
「もしもし、今日、出て来いよ。いつものところで待っている」
そんな呼び声を、今でも聞くことがある。
義雄のベンツが、私を拾うために停まっていた駅前。
少し照れくさげに、車の中で、手をあげて私を招いた春夏秋冬。それぞれの季節。義雄が私を呼ぶ声が、その駅に降り立つと聞こえてくる。

 人との出会いと別れの不思議な景色は、後の時間を生きる者に限りない慕情を残す。もしかしたら、義雄の妻になって、人生という旅を、今でも共に歩いていたに相違ない。
いつどこで、そのボタンを掛け違えたのだろう。
 一人後に残された私は、都会の人混みの中を歩きながら、留まることを知らない時間の中身に「それはないでしょう」と語りかけていたのだろう。
通りすがった、冴えない見も知らない一人の男に「おい、邪魔なんだ」と肩を押されて、ふと現実の世界に立ち返る。

 義雄がにやりとして、そんな私の肩を抱いて、
「おい。お前らしくないぞ。
だから、あの時、俺が言ったじゃないか。
お前を抱きながら、お前の耳元で。
アメリカにいる親元に帰る日が近い。一緒に帰ろう。
そのつもりで俺は、この街にいて、ややこしい授業に出ているんだ。
まあ、お前がいたから医者になれたようなもんだ」と。

見た目にどこか無頼の雰囲気が私にはあったが、思いの外、現実を見ていた私。
親や妹を置いて、どこか風来坊の趣を持つ義雄について行く勇気がなかった私の良識。
義雄は、日本で生き、日本にて人生半ばの時間で、別世界に一人旅だった。

(完)

恋または愛 その断章(2)

からの続きです)

 日頃から、あまり饒舌ではない義雄が言う。いつの間にか、別れ別れの間に過ぎた時間はそれぞれの事情の中で、気楽な身分とは到底言えないが、久しぶりに耳にする義雄のぶっきらぼうな言い草が、私を何とか抱こうとして、彼が大暴れした日の光景を蘇らせた。
 「聞いているか。俺はお前に出会った日から、いつかは抱こうと決めていたんだ」
 「私も同じかも。まあ、過ぎた時間は取り返せないけれど、いいじゃない。貴方からの電話を、素直に受け取る大人になった私がいる。逃げも隠れもしないわよ」
 「これから、取り逃がした時のために、時々連絡を入れる。その時には、必ず出てこい。約束だ。忘れるな」

 その夜は、義雄に抱かれ、彼の胸の中でまどろんだ。義雄は、優しく私を抱いた。そうして、「時々会おう。取り逃がした時のために」と重ねて言った。

 それぞれの私的事情には、二人とも今さら触れない。「風の便り」という言葉があるが、心を残したまま別れた男と女の間には、どこからか情報が入ってくるものだから。ただ、ひたすら、相手を見つめながら世の中を生きていくことなどは、夢のまた夢の世界、若い男と女、ただ、二人だけで世界は構築されていない。それが世の常である。

 わがままいっぱいであった義雄も、今は別世界の住人になった。
 およそ、この地球という空間にあって、永遠の命を授かり生き続けられるものはないのだ。いずれ訪れるその時を待ちながら、与えられた時を生きる以外には。

 義雄がどこを流離っているのか、私は知らないが、時々夢の中で私を呼ぶ声が聞こえてくる。相変わらずぶっきらぼうな口調で。
 「おい、まだ、生きているのか。これからの人間社会には、あまりいいことはないぞ。俺のところに早く来い。お前は、俺が入院していた病院を覚えているか。あの時もお前を抱きたかったんだ。あの病院は俺の病院で、そうして女房の病院でもあったから、あまり無茶はできなかった。あの病院のベッドの上で、俺がお前を抱いているのを見つけたら、ワイフのやつ、俺を病院から叩き出したに相違ない。そんな俺の思いを、お前は知らないだろう」
 「今さら、何を言っているんだか。あなたはアメリカに帰るはずだったんじゃない。無事学業を終えたら」
 「お前のおかげで帰りそびれたんだぞ」
 「それは申し訳ないことをしました」
 「今さら、遅い」
 お前がここにいることは、とっくの昔から知っていたぞ、と言わないばかりに義雄は笑っている。それでいてどこか怒っている風情で、私を見ていた。

 いつかこんな出会いをするだろうと、心の中では十分に承知していた私も「世の中の何にも知りません」という可愛くあどけない季節は、どこか遠くの日になっている。
 それでも、昔々の日に義雄と交わした約束は、記憶の中にしかとある。
 こうして、義雄と付かず離れずの友情にも似た、「愛」という不思議な言葉が持つ中身の意味を学び取るまでは、また幾年もの歳月が通り過ぎていた。

(3に続く)

恋または愛 その断章(1)

 ―ある秋の日に―

 「二、三日時間取れるか?都合つけろよ。次の場所に出てこい。必ずだぞ、もう、君との残り時間も少なくなっているような気がする。忘れるなよ」
 電話の主は幼馴染の義雄からだ。考えてみれば、義雄との付き合いも長い。なにしろ幼稚園時代からの仲良しなのだから。
 「君との付き合いは、おふくろの付き合いの次に長いのだから」
 が、義雄のいつもの口癖だった。時々、思い出したように電話をかけてきて、
 「おい、生きているか。時間があったら出てこい。場所は今日の夕方5時。俺、車を回して駅前で待っているから。あのあたりは人が多いから、長くは車を止められない。だから、時間かっきりに。じゃあな―」

 彼の仕事は医者だ。茫洋とした風貌、もっさりとした歩き方から、外科の医者とは想像もつかない。
 義雄と私が幼い日に交わした約束は、
 「俺、医者になる。お前の最期は俺が見る」
 という、まるで遠い世界、その時が果たして訪れるものかどうかもわからない先の先の日のことを、彼が真面目くさった顔で約束した日からだ。

 あれから何年になるのだろう。指折り数えなければわからない程の月日が、二人の間に過ぎている。
 医学部の予科にいて、何やらふらふらと学内を歩いていた義雄が、果たして医者になれるものかどうか。遊び人の気配もあり、どこか茫洋とした表情を持っている、そんな義雄と私が再び出会ったのは、その大学の図書室で仕事をしていた私のところに、医学雑誌のバックナンバー探しに来た義雄と顔を合わせたからである。
 その時の義雄は、なんとも言えない照れくさそうな表情は、それから後も、私の心のどこかにいつも住み着いて、ふっと思い出すことが多くなっていた。

 小学生の頃から柔道をやっていた彼は、どちらかと言うとずんぐりむっくり型で、とかく冷静・沈着・瀟洒等と評されがちな、外科医という職業から遠いところで「遊び心大あり」の学生になっていた。
 その時、久しぶりに顔を合わせたのだが、一人前の医者になるのには、他の学科より長い時間が必要な医学部の過程を修了して、国家試験を通過するまでの長い時間、果たして彼が持ちこたえることができるかどうか。目の前にいきなり現れた、まだ少年期そのままの雰囲気を持つ彼がカウンターの前に立ち、「よう、元気か」と顔を上げた私に声をかけてきた。

(2に続く)
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