(1からの続き)
「時」というものは容赦なく過ぎる。その「時」は、どのように知恵を凝らし、戦いを挑んでみてもとどめる術はない。
それはともかく、ミキからかかってきた突然の今日の電話は、一気に私を遠くなった日の景色に連れ戻した。
「ふふふ。ほんの少しだけど、私の手がけた仕事が芽を吹いて、
いま懐具合がいいの。
あなたを誘って、急に旅に出たくなったのよ。
パスポート持っているでしょう。
一週間後、羽田空港の出国受付のカウンター前で合流よ。
忘れずに、予定表に入れておいて。必ずよ。
あなたとの旅を、いつか実現する。これは私の誓いのようなものなの。
あなたは知らなかったでしょう。
詳しいことは、また後で連絡する」
と、たったそれだけを私に告げて、電話は切れてしまった。
私の手の中にある受話器が、その時まるで生き物のように跳ねたような気がするのだが、電話の向こうにミキがいる気配はもうどこにもない。
「ちょっとちょっと、待ってよ」
切れてしまった。電話の向こうにいるミキを追いかける私。
当時、私は多少公的身分に近い場で働いていたので、日本から外に出るには、提出しなければならない書類が幾つか必要だった。それに、ミキは知らないが子供も2人いる。だが、そんなことはどうでもよくなっていた。
ミキとの2人だけの旅なんて最高。私の心が弾む。
思いもかけないミキからの電話と、旅への誘い。そのプレゼントに、私の心は舞い上がる。しかも、見知らぬ異国への旅の誘いなのだから。
「あなたはいつも、別の世界を飛んでいたような少女だった。
そのことを思い出してのプレゼントよ」
と、私に告げたミキ。受話器の向こうでひそかに、含み笑いをしているようなミキの気配が感じられた。
13歳の春以降から、今日までの間に過ぎた時間。ミキの心の中に吹いた、風の行方を私は知らない。少し縮れた髪の持ち主だったミキの姿が無性に懐かしい。
幼稚園と小学校は同じだったから、かれこれ9年間、いつも私の隣の席にいたミキ。そうして、別々の方向に向けて歩き出した2人。
日本に帰国してからは、東京都神戸という地で、音信不通の時が過ぎていた。
社会の様々な矛盾をいやというほど教えられ、それなりに鍛えられて、大人になった。その中には、もう思い出すまいと心の奥底に封印したものも多い。
受話器を通して聞こえたミキの声には、まだ幼い頃の甘え声が残っていた。何しろ背丈がいつも同じくらいだったから、ミキは私の左右いずれかの隣にいて、担任の先生から「そこの2人、静かになさい」とよく叱られていた。
「委細、会ってから詳しく話すわよ。母上にもくれぐれもよろしくね。
必ず、約束の場所に約束の時間までに現れてよ。
楽しみにしている。
行き先、時間は後で連絡するわ。じゃあね」
ミキからの唐突な二度目の電話も、こうしてぷつんと切れていた。
手元の予定表を慌てて繰る私を、不審な顔で見上げる子供たち。
当時は、外国行の飛行機の発着便は全て羽田空港からの時代である。
幼い頃から、私は少し放浪癖があった。いつもどこかに旅することを夢見ていた。
だから、日頃から旅の準備には怠りない。何か一つくらいは役立つ習慣が思いがけなく生きる。
時には、仕事も家事も子供も日々の暮らしの中に置いて、一人旅に出かけるのを私は生きがいにしていた。そんな自分を、ミキは知っていたのかもしれない。
とは言っても、昭和20年8月の暑い夏の日以来、私の運命はそれなりに恵まれた生活環境から放り出され、「のどかさ」などという言葉も時間もはるか空の彼方に消え去り、誰にぶつけることもできない「怒り」を胸に抱いて生きてきた。
寡黙であった父は多くを語らないが、激変した生活環境の中で、一からの再出発に懸命であった。病弱な身体の母、まだ幼い妹2人が私の側にいた。その長女の場にいる私は、たとえ力不足であったとしても、背筋を伸ばして生きていかざるを得ない日々が続く。
旅好きの仲間から、「外国への旅は必ずパスポートが必要だから、チャンス到来の時を逃さないように早くから用意しておくこと」との親切な助言をもらった。その友の進言は思いがけなく、今回役立つことになった。
一応、夫の了解は取り付けなければなるまい。子供2人を数日預けることになるのだから。
ミキからの突然の旅への誘い、パスポートが必要な旅への願いを、夫に申し出た。
「いいよ、どこへでもどうぞ。
ただし、行き先と帰国日時くらいのメモは残しておくこと」
と言われた。たったそれだけの返事に、多少は緊張気味でいた私は拍子抜けする。
「それはそうとどこへ行くのだ」
と夫に聞かれて、私は旅の行先を聞いておかなかったことに気がついた。
「また電話くれるそうだから、その時にわかるわよ」
と応える。少し舞い上がっている気分の自分に反省もするが、考えてみれば「行先不明の旅」では済まされないと納得もする。
ともかく、ミキと私のふたり旅はこうして始まった。
(続く)
「時」というものは容赦なく過ぎる。その「時」は、どのように知恵を凝らし、戦いを挑んでみてもとどめる術はない。
それはともかく、ミキからかかってきた突然の今日の電話は、一気に私を遠くなった日の景色に連れ戻した。
「ふふふ。ほんの少しだけど、私の手がけた仕事が芽を吹いて、
いま懐具合がいいの。
あなたを誘って、急に旅に出たくなったのよ。
パスポート持っているでしょう。
一週間後、羽田空港の出国受付のカウンター前で合流よ。
忘れずに、予定表に入れておいて。必ずよ。
あなたとの旅を、いつか実現する。これは私の誓いのようなものなの。
あなたは知らなかったでしょう。
詳しいことは、また後で連絡する」
と、たったそれだけを私に告げて、電話は切れてしまった。
私の手の中にある受話器が、その時まるで生き物のように跳ねたような気がするのだが、電話の向こうにミキがいる気配はもうどこにもない。
「ちょっとちょっと、待ってよ」
切れてしまった。電話の向こうにいるミキを追いかける私。
当時、私は多少公的身分に近い場で働いていたので、日本から外に出るには、提出しなければならない書類が幾つか必要だった。それに、ミキは知らないが子供も2人いる。だが、そんなことはどうでもよくなっていた。
ミキとの2人だけの旅なんて最高。私の心が弾む。
思いもかけないミキからの電話と、旅への誘い。そのプレゼントに、私の心は舞い上がる。しかも、見知らぬ異国への旅の誘いなのだから。
「あなたはいつも、別の世界を飛んでいたような少女だった。
そのことを思い出してのプレゼントよ」
と、私に告げたミキ。受話器の向こうでひそかに、含み笑いをしているようなミキの気配が感じられた。
13歳の春以降から、今日までの間に過ぎた時間。ミキの心の中に吹いた、風の行方を私は知らない。少し縮れた髪の持ち主だったミキの姿が無性に懐かしい。
幼稚園と小学校は同じだったから、かれこれ9年間、いつも私の隣の席にいたミキ。そうして、別々の方向に向けて歩き出した2人。
日本に帰国してからは、東京都神戸という地で、音信不通の時が過ぎていた。
社会の様々な矛盾をいやというほど教えられ、それなりに鍛えられて、大人になった。その中には、もう思い出すまいと心の奥底に封印したものも多い。
受話器を通して聞こえたミキの声には、まだ幼い頃の甘え声が残っていた。何しろ背丈がいつも同じくらいだったから、ミキは私の左右いずれかの隣にいて、担任の先生から「そこの2人、静かになさい」とよく叱られていた。
「委細、会ってから詳しく話すわよ。母上にもくれぐれもよろしくね。
必ず、約束の場所に約束の時間までに現れてよ。
楽しみにしている。
行き先、時間は後で連絡するわ。じゃあね」
ミキからの唐突な二度目の電話も、こうしてぷつんと切れていた。
手元の予定表を慌てて繰る私を、不審な顔で見上げる子供たち。
当時は、外国行の飛行機の発着便は全て羽田空港からの時代である。
幼い頃から、私は少し放浪癖があった。いつもどこかに旅することを夢見ていた。
だから、日頃から旅の準備には怠りない。何か一つくらいは役立つ習慣が思いがけなく生きる。
時には、仕事も家事も子供も日々の暮らしの中に置いて、一人旅に出かけるのを私は生きがいにしていた。そんな自分を、ミキは知っていたのかもしれない。
とは言っても、昭和20年8月の暑い夏の日以来、私の運命はそれなりに恵まれた生活環境から放り出され、「のどかさ」などという言葉も時間もはるか空の彼方に消え去り、誰にぶつけることもできない「怒り」を胸に抱いて生きてきた。
寡黙であった父は多くを語らないが、激変した生活環境の中で、一からの再出発に懸命であった。病弱な身体の母、まだ幼い妹2人が私の側にいた。その長女の場にいる私は、たとえ力不足であったとしても、背筋を伸ばして生きていかざるを得ない日々が続く。
旅好きの仲間から、「外国への旅は必ずパスポートが必要だから、チャンス到来の時を逃さないように早くから用意しておくこと」との親切な助言をもらった。その友の進言は思いがけなく、今回役立つことになった。
一応、夫の了解は取り付けなければなるまい。子供2人を数日預けることになるのだから。
ミキからの突然の旅への誘い、パスポートが必要な旅への願いを、夫に申し出た。
「いいよ、どこへでもどうぞ。
ただし、行き先と帰国日時くらいのメモは残しておくこと」
と言われた。たったそれだけの返事に、多少は緊張気味でいた私は拍子抜けする。
「それはそうとどこへ行くのだ」
と夫に聞かれて、私は旅の行先を聞いておかなかったことに気がついた。
「また電話くれるそうだから、その時にわかるわよ」
と応える。少し舞い上がっている気分の自分に反省もするが、考えてみれば「行先不明の旅」では済まされないと納得もする。
ともかく、ミキと私のふたり旅はこうして始まった。
(続く)