第二次世界大戦。その行方が混沌としていた昭和19年8月夏。大勢の学徒兵たちが、前線に向けて旅立つことが多くなっていった。
国の運命をかけての戦争という現実は、非情なものだ。本来なら大学で学問に励み、それぞれが目指す明日の社会への旅立ちが期待され、夢を抱いていた若者たちだ。しかし、国の名誉をかけての「戦争という大義」のためには、個人的自由は許されない。
当時、台湾・台北市にも多くの兵士たちがいた。軍務の合間の貴重な休暇日には、我が家を訪れて、暫しの時間で心を休ませ、本を読むか、音楽を聴いていた。
その静かな姿が、今でも忘れられない。彼らの心の内を聞きただす時間もないうちに、彼らは去っていった。そうして、二度とこの世で、彼らに出会うことはなかった。
Aは、早稲田の理工学部に在籍していた。理工にいた学生たちも、学業を後において全て戦列に参加することになった夏のある日、日本の内地に住む親兄弟に別れを告げ、海軍予備学生として、当時台北に在住していた私の家を訪ねてきた。それ以来、休暇の時間を利用して、彼は我が家の仲間入りをする。
彼らは、静かに、与えられたつかの間の自由時間を、我が家の応接間で本を読むか、母の収集したショパンやベートーヴェンやブラームスの曲が収められたレコードのファイルの中から、好きな曲を抜き出し、外出時間ぎりぎりまで聴いていた。その静かな姿が、私の記憶の中にいつまでも残ることになる。
誰一人、再び相まみえることができない彼らの姿が、懐かしく切なく思い出される。
当時、私は女学校の4学年に在籍していた。「戦争」というものの厳しさや悲しさ、理不尽な状況に、深い理解があろうはずがなかった。南国の空はどこまでも青く澄み渡り、アメリカのB29という爆撃機が、南国の太陽に翼を煌めかせて飛来する姿を、時たま目にすることがあったにしても。
空襲警報が鳴ったら、3分以内に服装を整え直し、さらに救急袋を肩に防空頭巾を背にして、3分以内に所定の救急待機の場に駆けつける訓練が始められてはいたが、その後に続く市街地の爆撃が南の方から始まっていたことなど、まだ確かな状況や状況に関して、思いが及ばなかった時であった。
その頃日本では、既に米軍によるかなり熾烈な爆撃が始まっていたという。それらの情報に関して、特別報道規制も始まっていたことも後で知ることになる。日本本国での、上級専門学校への進学の夢も希望も、全て不可能な時代が到来していた。
日本に帰国する船がいつあるのか、その情報も混沌としていた時代。夢と希望を胸に抱いて日本へ帰国し、上級学校へ進む予定でいた子女たちは、やむなく待機の姿勢をとることになった。とりあえず、進学希望の子女の夢をかなえるため、大学関係者が奔走した結果、国文科・理数科のある台北女子専門学校が新設された。しかし、その後の日本の敗戦のために、わずか一年余で閉校になった。
幻のように消え去る悲劇の運命を持つ専門学校が、我が母校である。それでも、担当教官が日本に帰国して再度の進学に必要な資料を整え、日本人子女の帰国後に備えて奔走してくれた。
限られた引揚荷物の中に、私はその書類を忍ばせて、生まれ育った穏やかな、また数多の思い出や友達に別れを告げた。
あの時の教官の努力がなければ、日本での私の新たな出発の方向性は大きく変わったかもしれない。女子の上級学校進学の門戸が広く開けられたのは、もっと後のことなのだから。
私は、引揚の際に体調をすっかり崩し、弱ってしまった母をいたわりながら、一旦父の郷里である、これまた焼け野が原に変わり果てた鹿児島に帰国したが、敗戦による環境の変化に向きあい耐えざるを得ず、何か得体のしれない怒りが収まらない日々を過ごすことになった。
黙々と時の流れに従い、戦いの場に赴いていった若き兵士たち。許された僅かな時間を楽しみ、去っていった若者たちの静かな表情が、つい機能のことのように思い出される。その時の彼らの穏やかな表情が私に勇気をくれた。そうして、今は帰らぬ彼らに向かい、負けるものかと一人力んでいたように思う。
ともあれ、食糧不足・焼け野が原の東京の景色には、夏には祖父母のもとに必ず帰国していた時に見たような、穏やかな景色はどこにも見当たらない。それでも、また、いつか穏やかな朝夕が再び巡り来るかもしれないという淡い期待感の中で、私は青山学院女子専門学校国文科の二年に編入した。
その時、台北という今は異国になった地を去るとき、手の中にしっかり渡された一枚の証書がなければ、その後の私の運命もまた大きく変わったのではないだろうか。
あの時、ご無礼をかけた方たちに「許せよ」と言いたい。
特に、思考の若い時代に、独りよがりで生きてきた私の遠い日々に、大いなる寛容で向き合ってくれた人々に対して。
若いということは、「傲慢」という言葉に置き換えられる。
私の十代の後半を、風の様に通り過ぎていった男たち。多くを語らず、温かい面差しで私を見ていた男たちに、いま、私は足の片方を引いて、恭しく礼を言う。
「抱いてくれてもよかったのに」と。
国の運命をかけての戦争という現実は、非情なものだ。本来なら大学で学問に励み、それぞれが目指す明日の社会への旅立ちが期待され、夢を抱いていた若者たちだ。しかし、国の名誉をかけての「戦争という大義」のためには、個人的自由は許されない。
当時、台湾・台北市にも多くの兵士たちがいた。軍務の合間の貴重な休暇日には、我が家を訪れて、暫しの時間で心を休ませ、本を読むか、音楽を聴いていた。
その静かな姿が、今でも忘れられない。彼らの心の内を聞きただす時間もないうちに、彼らは去っていった。そうして、二度とこの世で、彼らに出会うことはなかった。
Aは、早稲田の理工学部に在籍していた。理工にいた学生たちも、学業を後において全て戦列に参加することになった夏のある日、日本の内地に住む親兄弟に別れを告げ、海軍予備学生として、当時台北に在住していた私の家を訪ねてきた。それ以来、休暇の時間を利用して、彼は我が家の仲間入りをする。
彼らは、静かに、与えられたつかの間の自由時間を、我が家の応接間で本を読むか、母の収集したショパンやベートーヴェンやブラームスの曲が収められたレコードのファイルの中から、好きな曲を抜き出し、外出時間ぎりぎりまで聴いていた。その静かな姿が、私の記憶の中にいつまでも残ることになる。
誰一人、再び相まみえることができない彼らの姿が、懐かしく切なく思い出される。
当時、私は女学校の4学年に在籍していた。「戦争」というものの厳しさや悲しさ、理不尽な状況に、深い理解があろうはずがなかった。南国の空はどこまでも青く澄み渡り、アメリカのB29という爆撃機が、南国の太陽に翼を煌めかせて飛来する姿を、時たま目にすることがあったにしても。
空襲警報が鳴ったら、3分以内に服装を整え直し、さらに救急袋を肩に防空頭巾を背にして、3分以内に所定の救急待機の場に駆けつける訓練が始められてはいたが、その後に続く市街地の爆撃が南の方から始まっていたことなど、まだ確かな状況や状況に関して、思いが及ばなかった時であった。
その頃日本では、既に米軍によるかなり熾烈な爆撃が始まっていたという。それらの情報に関して、特別報道規制も始まっていたことも後で知ることになる。日本本国での、上級専門学校への進学の夢も希望も、全て不可能な時代が到来していた。
日本に帰国する船がいつあるのか、その情報も混沌としていた時代。夢と希望を胸に抱いて日本へ帰国し、上級学校へ進む予定でいた子女たちは、やむなく待機の姿勢をとることになった。とりあえず、進学希望の子女の夢をかなえるため、大学関係者が奔走した結果、国文科・理数科のある台北女子専門学校が新設された。しかし、その後の日本の敗戦のために、わずか一年余で閉校になった。
幻のように消え去る悲劇の運命を持つ専門学校が、我が母校である。それでも、担当教官が日本に帰国して再度の進学に必要な資料を整え、日本人子女の帰国後に備えて奔走してくれた。
限られた引揚荷物の中に、私はその書類を忍ばせて、生まれ育った穏やかな、また数多の思い出や友達に別れを告げた。
あの時の教官の努力がなければ、日本での私の新たな出発の方向性は大きく変わったかもしれない。女子の上級学校進学の門戸が広く開けられたのは、もっと後のことなのだから。
私は、引揚の際に体調をすっかり崩し、弱ってしまった母をいたわりながら、一旦父の郷里である、これまた焼け野が原に変わり果てた鹿児島に帰国したが、敗戦による環境の変化に向きあい耐えざるを得ず、何か得体のしれない怒りが収まらない日々を過ごすことになった。
黙々と時の流れに従い、戦いの場に赴いていった若き兵士たち。許された僅かな時間を楽しみ、去っていった若者たちの静かな表情が、つい機能のことのように思い出される。その時の彼らの穏やかな表情が私に勇気をくれた。そうして、今は帰らぬ彼らに向かい、負けるものかと一人力んでいたように思う。
ともあれ、食糧不足・焼け野が原の東京の景色には、夏には祖父母のもとに必ず帰国していた時に見たような、穏やかな景色はどこにも見当たらない。それでも、また、いつか穏やかな朝夕が再び巡り来るかもしれないという淡い期待感の中で、私は青山学院女子専門学校国文科の二年に編入した。
その時、台北という今は異国になった地を去るとき、手の中にしっかり渡された一枚の証書がなければ、その後の私の運命もまた大きく変わったのではないだろうか。
あの時、ご無礼をかけた方たちに「許せよ」と言いたい。
特に、思考の若い時代に、独りよがりで生きてきた私の遠い日々に、大いなる寛容で向き合ってくれた人々に対して。
若いということは、「傲慢」という言葉に置き換えられる。
私の十代の後半を、風の様に通り過ぎていった男たち。多くを語らず、温かい面差しで私を見ていた男たちに、いま、私は足の片方を引いて、恭しく礼を言う。
「抱いてくれてもよかったのに」と。