このブログについて

◯ブログ筆者

山崎慶子

madamekeiko001

戦後司書教諭第1期生。
青山学院国文科卒・文部省図書館職員養成所卒
都立高校に勤務後、麗澤大学、駒澤大学、横浜国立大学などで司書教諭養成講座担当、フェリシモブックポート事務局長他を務める。
著作 『女子高校生のための人生設計』(文研出版)
    『グランマの本棚から』(NHK出版)
    『ことばの種まき(全6巻)』(フェリシモ出版)

◯管理人より

このブログは、筆者に代わって管理人がアップしております。
更新は不定期となりますので、ご了承下さい。
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赤い夏(2)

からの続き)

「時」というものは容赦なく過ぎる。その「時」は、どのように知恵を凝らし、戦いを挑んでみてもとどめる術はない。
それはともかく、ミキからかかってきた突然の今日の電話は、一気に私を遠くなった日の景色に連れ戻した。

「ふふふ。ほんの少しだけど、私の手がけた仕事が芽を吹いて、
いま懐具合がいいの。
あなたを誘って、急に旅に出たくなったのよ。
パスポート持っているでしょう。
一週間後、羽田空港の出国受付のカウンター前で合流よ。
忘れずに、予定表に入れておいて。必ずよ。
あなたとの旅を、いつか実現する。これは私の誓いのようなものなの。
あなたは知らなかったでしょう。
詳しいことは、また後で連絡する」
と、たったそれだけを私に告げて、電話は切れてしまった。

 私の手の中にある受話器が、その時まるで生き物のように跳ねたような気がするのだが、電話の向こうにミキがいる気配はもうどこにもない。
「ちょっとちょっと、待ってよ」
 切れてしまった。電話の向こうにいるミキを追いかける私。

 当時、私は多少公的身分に近い場で働いていたので、日本から外に出るには、提出しなければならない書類が幾つか必要だった。それに、ミキは知らないが子供も2人いる。だが、そんなことはどうでもよくなっていた。
 ミキとの2人だけの旅なんて最高。私の心が弾む。
思いもかけないミキからの電話と、旅への誘い。そのプレゼントに、私の心は舞い上がる。しかも、見知らぬ異国への旅の誘いなのだから。

「あなたはいつも、別の世界を飛んでいたような少女だった。
そのことを思い出してのプレゼントよ」
と、私に告げたミキ。受話器の向こうでひそかに、含み笑いをしているようなミキの気配が感じられた。
 13歳の春以降から、今日までの間に過ぎた時間。ミキの心の中に吹いた、風の行方を私は知らない。少し縮れた髪の持ち主だったミキの姿が無性に懐かしい。
幼稚園と小学校は同じだったから、かれこれ9年間、いつも私の隣の席にいたミキ。そうして、別々の方向に向けて歩き出した2人。
日本に帰国してからは、東京都神戸という地で、音信不通の時が過ぎていた。
社会の様々な矛盾をいやというほど教えられ、それなりに鍛えられて、大人になった。その中には、もう思い出すまいと心の奥底に封印したものも多い。
 受話器を通して聞こえたミキの声には、まだ幼い頃の甘え声が残っていた。何しろ背丈がいつも同じくらいだったから、ミキは私の左右いずれかの隣にいて、担任の先生から「そこの2人、静かになさい」とよく叱られていた。
「委細、会ってから詳しく話すわよ。母上にもくれぐれもよろしくね。
必ず、約束の場所に約束の時間までに現れてよ。
楽しみにしている。
行き先、時間は後で連絡するわ。じゃあね」
 ミキからの唐突な二度目の電話も、こうしてぷつんと切れていた。
手元の予定表を慌てて繰る私を、不審な顔で見上げる子供たち。

 当時は、外国行の飛行機の発着便は全て羽田空港からの時代である。
 幼い頃から、私は少し放浪癖があった。いつもどこかに旅することを夢見ていた。
だから、日頃から旅の準備には怠りない。何か一つくらいは役立つ習慣が思いがけなく生きる。
時には、仕事も家事も子供も日々の暮らしの中に置いて、一人旅に出かけるのを私は生きがいにしていた。そんな自分を、ミキは知っていたのかもしれない。

 とは言っても、昭和20年8月の暑い夏の日以来、私の運命はそれなりに恵まれた生活環境から放り出され、「のどかさ」などという言葉も時間もはるか空の彼方に消え去り、誰にぶつけることもできない「怒り」を胸に抱いて生きてきた。
 寡黙であった父は多くを語らないが、激変した生活環境の中で、一からの再出発に懸命であった。病弱な身体の母、まだ幼い妹2人が私の側にいた。その長女の場にいる私は、たとえ力不足であったとしても、背筋を伸ばして生きていかざるを得ない日々が続く。

 旅好きの仲間から、「外国への旅は必ずパスポートが必要だから、チャンス到来の時を逃さないように早くから用意しておくこと」との親切な助言をもらった。その友の進言は思いがけなく、今回役立つことになった。

 一応、夫の了解は取り付けなければなるまい。子供2人を数日預けることになるのだから。
ミキからの突然の旅への誘い、パスポートが必要な旅への願いを、夫に申し出た。
「いいよ、どこへでもどうぞ。
ただし、行き先と帰国日時くらいのメモは残しておくこと」
と言われた。たったそれだけの返事に、多少は緊張気味でいた私は拍子抜けする。
「それはそうとどこへ行くのだ」
と夫に聞かれて、私は旅の行先を聞いておかなかったことに気がついた。
「また電話くれるそうだから、その時にわかるわよ」
と応える。少し舞い上がっている気分の自分に反省もするが、考えてみれば「行先不明の旅」では済まされないと納得もする。

 ともかく、ミキと私のふたり旅はこうして始まった。
(続く)

赤い夏(1)

「もしもし、ご無沙汰しています。私が誰かわかる?わかんないでしょう」

 今日は珍しくいつもより仕事が早めに片付いたので、たまには家族の夕飯でも作ろうかと、キッチンの中をうろうろしている私にかかってきた一本の電話。
過ぎた遠い日の、どこかで聞いていた声が、受話器の向こうから私を呼んだ。遠い日の記憶にある、その声の誰かを追いかけながら、その誰かを思い出そうと、私は懸命であった。
私の記憶のスクリーンのどこかに、いつもいた、誰かの声を。
私と遊んでいた、幼い日々の友達の誰かに違いないと、その声の主を探る。
その時、記憶の中の幾つもの映像が、いきなり早送りになり、ぐるぐる回り始めた。

 そうだ、思い出した。
あの声、私に話しかけてくる言葉のトーンは、小学校の時に同じクラスにいたミキだ。

「ミキね、そうでしょう」
「ふふふ。ご名答。ご無沙汰続きでごめんなさいだけど、その、ミキです」
「驚かさないでよ。何年ぶりになるのかしら。いつの間にか、あっという間に時が過ぎているわよ。数えきれないほどの時間よ」
「あなたと別れてから、かれこれ、もう40年くらい前になるわよ」
「いろいろなことがありました。でも、どうやら、かにかくに私も生きてきたわよ」
「私も、同じようなものよ。ところで、お母様たちはお元気?」
と、ミキが言う。

 私の記憶の中に、今でも鮮明に残っている様々な思い出の映像が、次から次へと浮かんでは消える。泣いたり笑ったり、膨れ面をしていた幼い時のミキの顔が。
長い間、一箇所にしまわれ、止まったままになっていた私の頭の中の映像が、息を吹き返したような動き始めた。
その映像は、まるで、生き物のように、次から次へと勝手に回転をし始めた。ミキも私も、幼いよちよち歩きの頃からの映像である。

 当時、台湾・台北市に、共に在住していた幼友達のミキ。南国の風土の中で、子供たちは伸びやかに育てられていた。その島で、産業・農業・教育環境等を整備した努力が実を結んだ穏やかな街であったが、その懐かしい島も、今は異国となり、大きく変化している。
 南国特有の伸びやかな風土と、抜けるような青い空。その中で生まれ、おおらかに育っていったミキと私。
そこに住む人たちの心根もまた、おおらかであった。
日本が統治していた時、教育環境の整備に特に力を込めていたから、文盲の民もいない。今は知る人も少なくないが、日本の最後の旧帝国大学となった台北帝大と、旧制台北高等学校・高専もあった。
 ミキと私が卒業した小学校は、今も当時と同じ場所にあり、数年前に創立80周年を迎えた。現在は3000人からの子供たちが学び、子供たちの歓声が響いている大きな小学校になっているという。私たちが入学していた当時は、たった2学級で出発した新しく可愛い小学校で、親も子も元気いっぱい。みんなで校庭の石を拾い、草を抜き、机を運び、楽器も運び入れ、少しずつだが子供たちが学び、遊ぶ場に整えられていった。私たちは、その誕生したばかりの小学校の2回生であった。

 当時、台湾に在住していた日本人は、後に第二次世界大戦と呼ばれることになる戦争に遭遇し、それは日本の敗戦という、思いがけない形で終わった。
 否応なく母国日本への強制帰国命令が出る。そこに住んでいた多くの日本人たちの生活環境の全ては、この日を境にして大きく変化していった。その厳しい現実に、子供たちもまた否応なしに遭遇することになる。その地で生まれ育った子供たちにとっては、まさに母なる大地との決別である。温暖な気候、豊かなる食材、行き届いた教育環境。それらを全て放棄しての強制退去。予想もしなかった過酷な現実に直面することになった。
 それから過ぎた年月の中で、愛に満ちた穏やかな心の回復には、かなりの時間が必要だった。
だが、どのように多くの時が経過しようとも、忘れ去ることができない様々な景色は、人の心の中にいつまでも生き続ける。 

 ミキからの、思いもかけない30年ぶりの電話は、私を幼い日々の景色の中に一気に放り込んだ。生まれてから18歳まで、伸びやかに育った日々の思い出。それは、私の思いを遠くに連れ去り、いつまでも、心を彷徨わせることになった。
(続く)
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